ブラボーと叫ぶな?言われなくても言わないわ、オペラ『カルメン』感想

先週末友人と新国立劇場にオペラ『カルメン』の初日を観に行きました。

コロナ禍なので、お喋り、横を向く、そしてブラボーは禁止とのこと。

元々私はメリメの小説カルメンが大好きで、もちろんバレエ版も大好き、マリア・カラスのハバネロ(劇中歌)もお気に入りだったので期待値は最大値、ものすごく楽しみにして行きました。

始まった瞬間から嫌な予感がしたものの、あまりの駄作、歴史に残るくらいレベルの低い公演でしたので、この場で「何故嫌いだと思ったのか」を少し冷静に考えてみます。怒りのピークは10秒とよく言いますが、あれは嘘ですね。未だに思い出すと気分が悪くなりますから。


今回オペラ・カルメンを失敗たらしめたのは大きく4つの理由があると思います。

脚本、構成(演出)、言語、当日の問題です。当日主役の一人であるホセ役のフランス人俳優がコロナにより入国関係で来れず、代役の日本人をたてたところその方が体調不良、そのまた代役が舞台脇に出て歌だけ歌うという惨状でした。

全体の設定としては舞台を現代日本のショービジネスの裏側とし、現代の反骨精神のある女性=カルメンということになっている。スペイン出身の演出家によって作られた。以上を踏まえた上での私の考察です。


脚本:そもそもカルメンは何故自由を求めたのか?

 もちろん、今の時代に女性が完全に自由であるとは言わない。そもそも私はフェミニストなので今の女性の置かれる立場が完全に自由であると言うつもりも全くない。もっとキャリアの選択肢はあるべきだと思うし、脱毛とかメイクとかそういう本来決まりのない暗黙の了解みたいなものからも解放されるべきだと思うからです。

ただ、カルメンが作られた19世紀とはわけが違います。そもそも女性の人権とか1ミリもなかった時代、女性に決定権などなかったあの時代に、「自分が男を選ぶ」からカルメンが特異な存在だったのであって、みんなわりと芯が強い現代において自由に生きて犯罪に突っ込んでいったとしても、これはもう自由な人ではなく勝手な人ではないでしょうか。

「自分勝手という面」だと、たしかにカルメンは原作でも人妻なのにホセと恋に落ちる勝手な女ですが、それが美学として許される特有の舞台設定(スペインが舞台という熱さとロマ(ジプシー)という属性)もあってこそ成り立つもの。

でもそれを現代の日本に当てはめると?残るのは外国人が他国を見るときに感じる「自分の国とは感性が違うだろう」と勝手に期待するエキゾチックさだけではないかと思います。

「芯の強い女」なんて私の周りには掃くほどいて、今回のカルメンのモデルになったとされ、劇中なんのひねりもなくカルメンに投影されたエイミー・ワインハウスは最早「新しい時代の女」なんかではない。言ってみれば、現在我々女性はエイミー・ワインハウス2.0を社会に求められて、それに応えざるを得ない世代です。その辺のところの感性が遅れているというか「好きに恋愛をする、ルールには縛られない、やりたいように生きる=反骨精神のある強い女」という安直な女性像の設定が浅いと感じてしまいました。

だから、カルメンという人物にこんなにも魅力を感じず、ハバネロも薄っぺらい曲だと感じたのでしょう。

「女性の自由」なんて、男女にかかわらずもう当たり前の時代。それを出来ないのは女性自身の問題ではなくてそうできないシステム、社会構造が問題です。そういう意味では、「自由がない芸能界」という設定はまだいい線を行っているとは思いますが、それでもやっぱり「自由な女ってこういう感じでしょ」という単純な決めつけが上から目線だなと思ったし、あまりにカルメンが非凡すぎて全く魅力を感じませんでした。

とても、とても残念です。


構成、演出:もしこれがフランスならばまだ、いいのかも。でも舞台の本国でやるなら設定はしっかりして

構成と演出においては3つの問題点が挙げられます。

①まずいつの時代の日本なのか謎

②純粋に服がダサい、

③舞台なのか、オペラなのかわからない中途半端なセリフと音楽


1つ目は、みんなスマフォは一応持っているので近代感は出しているものの、どう考えても昭和の設定なのです。そのちぐはぐさが最後まで拭えず、前評判の高かった「前衛的」な鉄の舞台が陳腐に見えました。あの鉄は近代感と杓子定規的な日本を表したかったのか?純粋に邪魔なだけでした。

上階から見る人が何人いると思っているのでしょう?そういう、観客にまで思考が至っていない、ディティールにこだわらない作品を私はとても良いとは思えません。

2つ目は登場人物が昭和から平成をまたぐみたいな洋服を着ていて単純にださかったです。そのダサさが3つ目の中途半端さに結びついているのでしょう。

3つ目は上記2点の合わせ技です。むしろカルメンオマージュの演劇としてなら楽しめたかもしれませんが、これってカルメンの名を冠したオペラですよね。中途半端な作品をプロとして観客に見せないでほしいです。


言語:日本で上映し日本人が演じて日本人が聞くのにフランス語である必要があるのか。

これが演劇っぽいせいもあったので、フランス語を話す日本の警察官にとてつもない違和感を抱きました。妙にリアルな設定なのにどこかがずれていて生理的に気持ち悪い感じ。

私が4年生の時に、大学でオペラ入門/オペラ学を取っていて、その時に井上道義総監督・指揮、野田秀樹演出の『フィガ郎の結婚』を何度か観ました。モーツァルトの『フィガロの結婚(Les noces de Figar)』を日本に黒船が来るという風に丸ごとアレンジしているんですが、それが面白いのなんの。

歌だけ原作通りの言語であとは日本語、ここまで振り切るとオペラファンも演劇ファンも一緒に楽しめるんだなと思った大好きな作品です。

20200909news_figaro2020.jpg

https://www.geigeki.jp/performance/concert212/


素晴らしい代役、でも…

冒頭でもいったように代役に次ぐ代役で、当日はホセ役主人公が口パク、演技だけしてその代役が舞台袖ギリギリで歌うというもの。

折角オペラを劇場に見に来て、声のする方が明らかに違って本当におかしく、耳は混乱。両方を目で追って、字幕も追って、鉄格子でそもそもの視界も悪くてという事態、プロがお金を取ってやることにしてはあまりにお粗末な舞台でした。

オーケストラが素晴らしかったことだけが救いです。

単純に演技で歌っている主人公の愚の骨頂感と言ったら。…薄っぺらで自分勝手なドンホセにはちょうど良かったと言えとでいうのでしょうか。


さて、分析するといいながらこき下ろしてしまった今回のオペラですが、

散々な出来だったとはいえ実際に劇場に足を運んで舞台をみるという体験は何事にも代えがたいなと改めて思いました。また私がこんなに作品に対して怒り狂ったのも、つまるところ私自身の底が浅いからなのでしょう。

ひとまず、マリア・カラスのハバネロを聞いてボルショイのバレエをみて寛大な気持ちを持つ努力でもしましょう。

https://youtu.be/YfNTzIVgS28

ではまた次回


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